不思議な、「人」の縁の話し。中編(1977冬~1981春)

ジングルベルが流れ始め街が華やぎ、サンタクロースの衣装をまとったサンドイッチマン(注サンドイッチの姿をしたイケ面ヒーローでは無い)が駅前で、クリスマスセールのチラシを道行く人々に配り始めた頃も、僕の大学バイトそして海通いの暮らしは何一つ変わる事は無かった。時折通学途中にあるモスバーガーの前を通りあの男の事を思い出してはいたが。(注男のバイト先ではない男が愛用していたボードの名前が似ていたので)そうこうするうちに東京での2度目の春がやって来た。井の頭公園は桜が見頃になり昼夜を問う事無く、花見客でごった返していた。僕はといえばその喧噪を横目で見ながら、明日の波を思い描き家路を急いでいた。そう今日は待ちに待った金曜日。バイトを片づけオンボロ車を転がし千葉の実家に帰る日なのだ。そして睡眠もそこそこ朝一で海に入り日が暮れるまで波に乗り、締め括りはビールをしこたま飲んで寝る。そんな判で押したような単調な暮らしが続いたある日、あの「男」にでは無く「男」の友人「O」に海で再会した。(まどろっこしいので仮にO久保としよう)たわいもない世間話の中で「男」の近況を知った。大学を中退してバイトしながら波乗り三昧らしい、今で言う「フリーター」だが、当時はサーファーはもちろんの事、アルバイトで生計を立ている男子になど市民権は無くいわば最低の暮らしをしている「男」に興ざめしたのはいうまでもなく、その後記憶の片隅に追いやられた。「O久保」は世田谷にある武道で名を馳せたK大学のサーフイン部に所属し、合宿やコンテストで年に数回南房総を訪ずれていたせいか、たまに見かける事も有り挨拶程度の会話は続いていた。月日の立つのは今も昔も速いモノで、キャンパスには、髪を七三に分け紺色のスーツを着た学生の姿が目立ち始め、会社訪問や入社試験の話題が雀荘でさえも囁かれるようになった。僕は相変わらず波乗りオンリーと言いたいところだが、何せ小心者早々と会社訪問を済ませサラリーマンの切符を手に入れ、あとは必要な単位を取り卒業を待つばかり状態でサーフインに没頭していた。おそらく美大や音大等の芸術系以外の学生は100%近く就職を希望した。そんな時代だった。

無事に卒業に必要な単位を取得し一息ついた頃、新入社員研修の通知が届き、迫り来る現実を実感した。あと数 ケ月で社会人か、もう会社辞めない限り長い休みなんて取れないだろうな等と、何とも言えない寂寥感で胸が締め付けられた。その不安をかき消すかのように、いつものサーフイン雑誌を食い入るように読んだ。当時日本でたった一誌しか無かったサーフイン専門誌、そこには始めてバリ島でサーフインした日本人クルーの奮闘を称える写真と記事が特集されていた。「バリかあウルワツかあ・・・」そのページを開いたまま、自分の有り金を計算し数十秒で答えを弾き出した。全然足りない・・・今でこそ1週間だったら6~7万も出せば、誰でも手軽に行けるバリ島だが、・・・2週間で18万プラス滞在費5万・・・諦めるか、しかし人生最後になりそうな長期休暇・・・4月からはちやんと安定した収入も有ることだし。僕は社会人として第一歩を踏み出す前に、すでに20万近い借金を背負う事になった。それは初任給の倍近くに相当した事を付け加えておく。今振り返ると思い立ったら止まらない性格はすでにこの時点で確立されていたようだ。

数日後パスポートを初めとする様々な、手続きを終えいざ出発。開港したばかりの成田空港のものものしい厳重な警備を何度もクリアーし機上の人へ、海外旅行どころか飛行機に乗るのも始めて、おまけに前人未踏に近いバリへ1人旅。幸い同じ宿泊先の方々に、ポイント情報や変なキノコの食べ方、買い物をする際の値切り方等はレクチヤーを受けていたので、数日間は戸惑う事なくバリライフを満喫出来た。だがどうもしっくりこない事に気付いたのだ。そうあの「ウルワツ」へ行くためにこの旅は実行されたはず、なのに未だにそのブレークさえも見ていない(ヤバイこのままでは日本に帰れない。)とまだ見ぬウルワツの姿を思い浮かべながらクタビーチを歩いていると前からバイクに2人乗りをした日本人とおぼしき若者が・・・すれ違い様に「あれ~鈴木君じゃないいつ来たの?」なんとその言葉の主は[O久保」だった。まさに『飛んで火に入る夏の虫』じゃなくて『渡りに舟』とはこの事。早速明朝待ち合わせをし、夢にまで見たウルワツへとバイクを走らせた。バイクでおよそ40分その後、山道を1時間近くかけ歩いて、たどり着いた先に「ウルワツ」はあった・・・・帰国するまでの数日間O久保とのウルワツ詣では続いた。機中でお互いこれからのサラリーマン生活への不安や期待、今後の海との付き合い方等を熱く語り再会を約束した。

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不思議な、「人」の縁の話し。前編(1977春~1977秋)

話は30年近く前までさかのぼる、当時僕は都内の大学に進学し、夢に描いたようなキャンパスライフを送っていた。使い切れない程の仕送りを貰い、当時人気のあった中央線沿線の高級賃貸マンションに住み、学生の憧れの的だったアウデイに、レイヤードカットの可愛い彼女を乗せ、毎週末海に繰り出していた。というのは嘘でまったく正反対の暮らしをしていた。ただ一つだけ毎週末海に行っていた事を除けば。

折しも時は第2次サーフインブーム。僕がサーフインを始めた頃は、変人扱いされていたサーファーという人種が一気に世間に注目され、日の目を見たのだった。街はマッシュルームカット(アンガールズ又はふかわの様な)の若者で溢れ、海に行くわけでもないのに、なぜか足下は(稲妻マーク)のビーサン。おまけにボードを屋根に積んでいるだけで、女の子に羨望の眼差しで見られモテルという噂を信じ、どうせ海行かないんだからとボードをボルトでキャリアに固定したやからまで現れる始末。いわゆる「陸サーファー」の出現だ。話がタイトルからそれているように思えるが、この時代背景が重要なのだ。僕の通う大学(仮にA大としておこう)は武蔵野の面影が残る中央線沿線に有り、少々都心から離れていたのだが、うっとうしい梅雨が明け始めた頃から件の「陸サーファー」が雨後の竹の子のごとく繁殖し始めた。そんな奴らと俺は一緒にされたくないと憂鬱な日々を送って居たある日の事、明らかに(こいつは「オカ」ではない「ホンモノ」だ)と直感した男に、勇気を振り絞り「波乗りやってんの?いつも何処入ってるの?」などと話しかけてみたのだ。すると男は「実は君の事前に何度か見かけて、ホンモノに違いって僕も思ってたんだ。」いわゆる相思相愛だ。(勘違いしないでほしい僕はその頃も今もホモではない。)男は鵠沼に住むロコサーファーで、その後会うたびに「千葉はいつも波あって羨ましいよ、今度千葉行くね一緒に入ろうよ」と口癖のように言っていた。今だったら「携帯教えて」「メルアドは」で済むのだが、携帯どころか電話もアパートに無く(それが普通でほとんどの学生が、4畳半か6畳の風呂なしに住み銭湯に通っていた)連絡の取りようの無いまま夏休みを迎え、帰省しサーフインとバイトに明け暮れていた。いつものポイントで1ラウンドを終え岸に戻ると、そこには見慣れた男の笑顔。「いつ来たの?良い波だよ俺はこれからバイトだけど。」「あっ友達と一緒なの?」「そうそう、幼なじみのO君」「よろしく鈴木です、じゃあ君も鵠沼ローカルなんだね」みたいな会話をして、その日はそのまま別れた。そして稲刈りが始まる頃東京に戻り、夏休み中の台風スウエルの自慢話でもしようと、男をキヤンパスで捜したのだが、その姿を二度と見ることは無かった・・・・・

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