不思議な、「人」の縁の話し。最終章(1981春~2005現在)

帰国後バリでの暮らしを思い浮かべる暇も無い程、次から次へと深刻な現実が迫ってきた。下痢と微熱が続きコレラの疑いがあると、保健所の担当者の来訪を受けたり、真っ黒に日焼けした顔で1週間に渡る新入社員研修に参加し好奇の視線を浴び「営業マンはサーフイン等やっても役に立たない、ゴルフを覚えなさい。」「それに何だいそのマジックテープの時計は」・・・まるで今までの自分をすべて否定された様な、気持ちになり相当凹んだがりっぱな社会人に成るとはそいう事なのだと言い聞かせながら、慣れない手付きでネクタイを絞め真新しいスーツに袖を通したのだった。いつまでも別れた恋人の思い出に浸っているかの如く、バリでの暮らしが蘇り前に進めず、何か良薬はないモノかと思いを巡らした末、バリでの出来事を紀行風にまとめ、前述したサーフイン雑誌に寄稿し見事不採用に・・・

僕の旅はようやく終わりを告げた。仕事とサーフインの両立、誰もが一度は真剣に悩む命題。どちらも真面目に、取り組もうとすればする程奥は深く真っ暗闇。僕はこのあと樹海のような深い森の中へと迷い込みそこを抜け出すのに、数年の歳月を費やした。初めてのバリトリップから14~5年経った頃、僕は真冬の海に浮かんでいた、その日はオーバーヘッドからアタマ半位のエクセレントコンデイション、日曜日という事も重なり若干の賑わいをみせていた。

とは言ってもこのサイズになると、おいそれと誰でも乗れるモノでも無いが。程良くシェプされた波をチョイスし、深いボトムターンを決めリップにカットバック、ロールインで締め括り。ラインナップにハアハアしながら戻ると、波待ちしていたサーファーが振り返り開口一番「よおう久しぶり、まだ波乗りやっての?」そうO久保だ!!!僕はまったく同じ質問をして、「やってるどころかロングだけどプロになったよ~」「え~マジでえ仕事は?」「サーフショップやってんだ」と何本ものGOOD SWELLを見送りながら再会を祝した。帰り道にショップに立ち寄り「こっち水暖かいしちょくちょく来るよ」「じゃあまたな」と少し薄くなり始めた後頭部を見送った。それからその言葉通り週末を共に過ごす事が増え、彼の人見知りしない社交的な性格も手伝ってかクラブ員にも自然に溶け込み、酒席等にも積極的に顔を出すようになった。ただ酒量に関わらず二人の口から出る話といえば大昔に行ったバりでの思い出ばかり。そう他にはほとんど接点が無かったからなのだ。しばらくするとO久保は何の前触れもなく姿を見せなくなった。水温が上がって来たので、自宅からほど近い(鵠沼から墨田区に引越していた)千葉北方面に戻ったのだろう、また寒くなったらこっちへ来るだろう位に楽観していた。ていうか良く考えてみたら連絡先を知らなかった、携帯電話はまだ一般には普及しておらず・・・

それから数年後、その日の僕は遠く仙台のビーチを、コンテストに出場する為訪れていた。質の良いビーチブレークとして有名な仙台新港。ビッグウエーブスポットとしてもその名を全国に知らしめている。早々と自由の身になった僕は優勝を狙う友人をそっちのけで、今晩は牛タンをつまみに芋焼酎でも等と、良からぬ事に思いを馳せていたその時、出たああ!!!O久保「いやあ久しぶり5年ぶり位かなあ?」僕「いや6年ぶりじゃない、処で何やってんの?試合見に来たの?」(その時はショートとロングのオールジャパンが同時開催されていた)O久保「見に来たには違いないけど、あの後仙台支店に転勤になって今こっちに住んでるんだ」そう彼は大手コンビニエンスストアの本部でエリアマネージャーをしていた。転勤かあ・・・まったく思い付かなかった自分を恥じながら「なんだ言ってよ心配してたんだ急に来なくなったから」裏を返せばそれ程の深いつき合いでは無いと言うことなのか・・・その日の夜はローカルサーファーの案内の元、昼間の想像をはるかに超える酒席になった事は言うまでも無い。さすがにこの時は、合コンで意気投合したカップルの様に携帯番号を交換し「また仙台来たら連絡ちょうだい」「わかったする」しかしそうそう仙台に行く機会は無く2~3年が過ぎた頃、僕は持病の腰痛が悪化し自宅で療養していたのだ。痛みは峠を越え3日間に及ぶ禁酒も、そろそろ解禁かな等とまたまた良からぬ事を・・・もうおわかですね、今度はミニチュアダックスフントの愛犬「フラン」と共に、「何で家に居るの分かったの」「店寄ったら奥さんが腰痛くて寝てるから行ってみれば、でも飲ましちゃダメだよだって」なんて勘の良い女なんだ・・・「どうしたの波乗りしに仙台から来たの?」「いやあ転勤でまた東京に、戻って来たんだ」「えっいつ」「半年位前」またかよ・・・その後は毎週のように何処かで1ラウンド終えると「フラン」と共に拙宅を訪ずれ、どんなに遅くまで飲もうと朝5時には起き「フラン」を散歩させ、海に入り明日の仕事に差し支えるのでと早々に帰宅する。まさにサラリーマンサーファーの鏡。翌々聞いてみるとそんな波乗りジャンキイーにも入社当時は忙しくて、海にも行けず悶々とした日々を送っていた時があったそうだ。そうか僕らが偶然にも奇跡の様な再会を繰り返して来られたのは「波乗り」そう「海」が引き合わせてくれたんだ。だからお互いちょっと海から遠ざかっていた時は会えない訳で、たまにでも良いから続けることが大切なんだなと痛感した。競馬場で知り合った人には海に行くより競馬場に行った方が逢える確立高いだろうし、スノボはやっぱり雪山・パチンカーはパチンコ屋・・・「海」って改めてすごいなホントに世界中繋がってる・・・・   終わり

本文中O久保等と呼び捨てにしていたが、実は1歳年上(卒業したのは一緒)だったようだ。

ゴメンナサイ。

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不思議な、「人」の縁の話し。中編(1977冬~1981春)

ジングルベルが流れ始め街が華やぎ、サンタクロースの衣装をまとったサンドイッチマン(注サンドイッチの姿をしたイケ面ヒーローでは無い)が駅前で、クリスマスセールのチラシを道行く人々に配り始めた頃も、僕の大学バイトそして海通いの暮らしは何一つ変わる事は無かった。時折通学途中にあるモスバーガーの前を通りあの男の事を思い出してはいたが。(注男のバイト先ではない男が愛用していたボードの名前が似ていたので)そうこうするうちに東京での2度目の春がやって来た。井の頭公園は桜が見頃になり昼夜を問う事無く、花見客でごった返していた。僕はといえばその喧噪を横目で見ながら、明日の波を思い描き家路を急いでいた。そう今日は待ちに待った金曜日。バイトを片づけオンボロ車を転がし千葉の実家に帰る日なのだ。そして睡眠もそこそこ朝一で海に入り日が暮れるまで波に乗り、締め括りはビールをしこたま飲んで寝る。そんな判で押したような単調な暮らしが続いたある日、あの「男」にでは無く「男」の友人「O」に海で再会した。(まどろっこしいので仮にO久保としよう)たわいもない世間話の中で「男」の近況を知った。大学を中退してバイトしながら波乗り三昧らしい、今で言う「フリーター」だが、当時はサーファーはもちろんの事、アルバイトで生計を立ている男子になど市民権は無くいわば最低の暮らしをしている「男」に興ざめしたのはいうまでもなく、その後記憶の片隅に追いやられた。「O久保」は世田谷にある武道で名を馳せたK大学のサーフイン部に所属し、合宿やコンテストで年に数回南房総を訪ずれていたせいか、たまに見かける事も有り挨拶程度の会話は続いていた。月日の立つのは今も昔も速いモノで、キャンパスには、髪を七三に分け紺色のスーツを着た学生の姿が目立ち始め、会社訪問や入社試験の話題が雀荘でさえも囁かれるようになった。僕は相変わらず波乗りオンリーと言いたいところだが、何せ小心者早々と会社訪問を済ませサラリーマンの切符を手に入れ、あとは必要な単位を取り卒業を待つばかり状態でサーフインに没頭していた。おそらく美大や音大等の芸術系以外の学生は100%近く就職を希望した。そんな時代だった。

無事に卒業に必要な単位を取得し一息ついた頃、新入社員研修の通知が届き、迫り来る現実を実感した。あと数 ケ月で社会人か、もう会社辞めない限り長い休みなんて取れないだろうな等と、何とも言えない寂寥感で胸が締め付けられた。その不安をかき消すかのように、いつものサーフイン雑誌を食い入るように読んだ。当時日本でたった一誌しか無かったサーフイン専門誌、そこには始めてバリ島でサーフインした日本人クルーの奮闘を称える写真と記事が特集されていた。「バリかあウルワツかあ・・・」そのページを開いたまま、自分の有り金を計算し数十秒で答えを弾き出した。全然足りない・・・今でこそ1週間だったら6~7万も出せば、誰でも手軽に行けるバリ島だが、・・・2週間で18万プラス滞在費5万・・・諦めるか、しかし人生最後になりそうな長期休暇・・・4月からはちやんと安定した収入も有ることだし。僕は社会人として第一歩を踏み出す前に、すでに20万近い借金を背負う事になった。それは初任給の倍近くに相当した事を付け加えておく。今振り返ると思い立ったら止まらない性格はすでにこの時点で確立されていたようだ。

数日後パスポートを初めとする様々な、手続きを終えいざ出発。開港したばかりの成田空港のものものしい厳重な警備を何度もクリアーし機上の人へ、海外旅行どころか飛行機に乗るのも始めて、おまけに前人未踏に近いバリへ1人旅。幸い同じ宿泊先の方々に、ポイント情報や変なキノコの食べ方、買い物をする際の値切り方等はレクチヤーを受けていたので、数日間は戸惑う事なくバリライフを満喫出来た。だがどうもしっくりこない事に気付いたのだ。そうあの「ウルワツ」へ行くためにこの旅は実行されたはず、なのに未だにそのブレークさえも見ていない(ヤバイこのままでは日本に帰れない。)とまだ見ぬウルワツの姿を思い浮かべながらクタビーチを歩いていると前からバイクに2人乗りをした日本人とおぼしき若者が・・・すれ違い様に「あれ~鈴木君じゃないいつ来たの?」なんとその言葉の主は[O久保」だった。まさに『飛んで火に入る夏の虫』じゃなくて『渡りに舟』とはこの事。早速明朝待ち合わせをし、夢にまで見たウルワツへとバイクを走らせた。バイクでおよそ40分その後、山道を1時間近くかけ歩いて、たどり着いた先に「ウルワツ」はあった・・・・帰国するまでの数日間O久保とのウルワツ詣では続いた。機中でお互いこれからのサラリーマン生活への不安や期待、今後の海との付き合い方等を熱く語り再会を約束した。

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不思議な、「人」の縁の話し。前編(1977春~1977秋)

話は30年近く前までさかのぼる、当時僕は都内の大学に進学し、夢に描いたようなキャンパスライフを送っていた。使い切れない程の仕送りを貰い、当時人気のあった中央線沿線の高級賃貸マンションに住み、学生の憧れの的だったアウデイに、レイヤードカットの可愛い彼女を乗せ、毎週末海に繰り出していた。というのは嘘でまったく正反対の暮らしをしていた。ただ一つだけ毎週末海に行っていた事を除けば。

折しも時は第2次サーフインブーム。僕がサーフインを始めた頃は、変人扱いされていたサーファーという人種が一気に世間に注目され、日の目を見たのだった。街はマッシュルームカット(アンガールズ又はふかわの様な)の若者で溢れ、海に行くわけでもないのに、なぜか足下は(稲妻マーク)のビーサン。おまけにボードを屋根に積んでいるだけで、女の子に羨望の眼差しで見られモテルという噂を信じ、どうせ海行かないんだからとボードをボルトでキャリアに固定したやからまで現れる始末。いわゆる「陸サーファー」の出現だ。話がタイトルからそれているように思えるが、この時代背景が重要なのだ。僕の通う大学(仮にA大としておこう)は武蔵野の面影が残る中央線沿線に有り、少々都心から離れていたのだが、うっとうしい梅雨が明け始めた頃から件の「陸サーファー」が雨後の竹の子のごとく繁殖し始めた。そんな奴らと俺は一緒にされたくないと憂鬱な日々を送って居たある日の事、明らかに(こいつは「オカ」ではない「ホンモノ」だ)と直感した男に、勇気を振り絞り「波乗りやってんの?いつも何処入ってるの?」などと話しかけてみたのだ。すると男は「実は君の事前に何度か見かけて、ホンモノに違いって僕も思ってたんだ。」いわゆる相思相愛だ。(勘違いしないでほしい僕はその頃も今もホモではない。)男は鵠沼に住むロコサーファーで、その後会うたびに「千葉はいつも波あって羨ましいよ、今度千葉行くね一緒に入ろうよ」と口癖のように言っていた。今だったら「携帯教えて」「メルアドは」で済むのだが、携帯どころか電話もアパートに無く(それが普通でほとんどの学生が、4畳半か6畳の風呂なしに住み銭湯に通っていた)連絡の取りようの無いまま夏休みを迎え、帰省しサーフインとバイトに明け暮れていた。いつものポイントで1ラウンドを終え岸に戻ると、そこには見慣れた男の笑顔。「いつ来たの?良い波だよ俺はこれからバイトだけど。」「あっ友達と一緒なの?」「そうそう、幼なじみのO君」「よろしく鈴木です、じゃあ君も鵠沼ローカルなんだね」みたいな会話をして、その日はそのまま別れた。そして稲刈りが始まる頃東京に戻り、夏休み中の台風スウエルの自慢話でもしようと、男をキヤンパスで捜したのだが、その姿を二度と見ることは無かった・・・・・

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